アイデアの甕

アイデアを放り込んでおくと甕は腐臭を発しない

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議論の火付け役 ~認識論の視点から~

仕様もない話をしていた高校生3人の内、1人が急に

 

「火って不思議やんな?“火”ってモノがある訳じゃないのに確かな境界をもって認識できるってことは、何かしらそこにあるってことやし。じゃあ何なん?」

 

と言い出したので驚いた。

 

何だかんだと議論が始まり、結局結論のでないまま「不思議やな」くらいで会話は終了したけれど、すごく好感を持ちました。「何やろな。ちょっとググってみるわ」とか言いながらすぐにスマホを取り出すことが無かったことに。

 

不思議だと思えることを不思議がりながら生きることを全然楽しめない人もいて、Google先生が教えてくれる“正解”らしきものを常に求めているのらしい。

 

自分の無知・無能を自覚しながら、それを周囲に悟られたくない大人たちに多いと思うのですが、どうでしょう?

 

自分の頭に不思議を抱えている人だけに見える「この人は自分の頭で考えて話している」感があって、内田樹さん風に言えば、『途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、「なんか違う」と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり』して『めったなことでは「すっきり」したものにはなりません。』

 

“わからない”を受け容れるにもある種の強さが必要で、自分の感覚や認識(「火は確かにそこにある」など)に自信がないとできないように思います。

月刊 たくさんのふしぎ 2008年 09月号 [雑誌]
 
日本辺境論 (新潮新書)

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