普通・一般・平均・標準を高いところに設定する商法
奨学金の話になると「借金してペイするほどの何かが得られると思って大学進学したんよな?」という自己責任論が出てきてぐうの音も出ない。
いや、ぐうの音くらいなら出るか。ぐぅ。
かつての世帯主観
かつては一国一城の主になることがサラリーマンの夢と言うか、達成可能な生活の目標として示され、郊外の一軒家に車2台持つ一夫一妻二子的な「標準家庭」像があったはず。
で、その当時からしてそれはかなり高い目標であったはずなのに「フツー」だからと。「ヘーキン」だからと。長期の住宅ローンを組んでみんな家を買い求めたわけです。
数千万円のお買い物は、食事を贅沢にするのとはわけが違って経済に与える効果はバツグンなのでした。で、バブッて崩壊して目論見は外れたけれども、この「標準家庭」像は生きていて、それがある種の目標として心のどこかにあったりするのでした。
大学進学当たり前
だから、というかその流れに乗って大学進学が普通になり標準になった感があって、それは大人が大人の都合の良いようにつくったこの社会ゲームに遅れて参加する(by 内田樹)ことの困難でもあるのですが、デフォルト設定が換えられてしまったのですよ。
そこには、自らの境遇・学歴を子供へ継がせたくない親心もあったかもしれないけれど。
とにかく、大学には行っといた方が良い。
なぜか?
みんな行くから。
みたいな当たり前だから当たり前論が通っちゃうのかなと。
でも、これはヤバイ。
高騰する学費で破産?大学授業料が払えない 奨学金なしに大学に行けない世帯が半数以上 〈AERA〉|dot.ドット 朝日新聞出版
学費高騰問題、マジヤバい。フツーがフツーに手に入らない時、そこには普通以下感(通称、劣等感)が生まれるので自己肯定感とか根拠なき自信とか持てなくなりそうで、マジヤバい。
「普通」を売る人
人は特別になりたい欲と普通でありたい欲の両方を持っていて、商売するなら「普通」をくすぐった方が特に日本では良いような気がします。
みたいな発想を植え付けることが出来れば勝ち。昔から家とか車とかレジャーとかの普通をマスに訴えて儲けることが手法として定着していて、一億総中流万歳みたいな風潮だったはずですが、今ではこう。
一億総平均以下(一億総下流とも)。
平均は下がっているのに、普通像の維持を通して自らを平均以下だと認識することが拡がっている気がしてなりません。
じゃあどうすんねん、と言う話になるでしょうが、これがオモシロくってネット上のブログ記事などでは一貫して訴えられています。
要、経済成長(断言)。
いやいや、むりやろーと思いますけど。抽象的で虹色の未来像を求めるのやめーやと思いますけれど。
でも、日本にいることのこの「普通」さはスゴイ強みかもしれない、とも思います。なんだかんだ言って、すごぉく恵まれているなと。
チャンスがある。とりあえず、今のところは。
無利子の奨学金を借りてきて国債を買っちゃう錬金術もほとんど用を為さない低金利時代なので(?)、何に時間使うかは真剣に考えた方が良い。その時間は、多くの人にとって大学生活にあってそれ以外にはあんまりないのではないかと「普通」に毒されながら思います。
大学へ行って卒業までした人が「大学なんて意味ねーぞ」と諭したところで本当に意味も説得力もないしなぁ…。